館長の自己形成に大きく寄与したトンキールの存在は看過できないものであります。 |
|
西高は小市民を育てる学校として大きな役割を果たした高校であると理解している。その西高に在学中に、「トンキール」と言う同人と言おうかグループが出来て、今に至るまでそのメンバーの一隅を穢している。 トンキールの特徴は、自覚を持った小市民の塊ゆえ、満場一致と言うことがなかったような気がする。何を決めても誰かが欠けているし、全員参加は死期が迫ってからの会食でようやく実現するかの感じであるが、それとても誰かが具合が悪いとか、日本にいないからとかの理由で、実質的に集まろうという意思があってもなかなかである。同人と言うのは、雑誌を出していたわけで、それへの投稿についても強要はされても拒否権は発動しえたように記憶している。最近では復刊準備号と銘打って年2回の発行が続けられている。この10人のメンバーはいまだ命を永らえていて、トンキールの各自の人生に与えた影響については多かれ少なかれ自負とは行かないまでも、何か感じているようである。 館長にしてみれば、トンキールなしでは西高時代はなかったし、それの人生への影響は良しにつけ悪しきにつけ少なくないと自覚している。 トンキールがセックスについて話を掘り下げなかったのが、当時の年齢からいって不思議である。それ以外の話題はタブーなしで紳士的に話し合えたような気がする。同人たちは、同じギャングの中にいても経験することも異なり、感じることも手前勝手で共通認識などなかったようであるが、何かがトンキールと言う言葉でメンバーをそれぞれの形でくくっていたような気がする。 誰が真のトンキーラーであるかは議論されたことはないようであるが、外されることは今の渋カジのシカトよりも、館長にとっては一大事であったような気がする。 わが青春はトンキールの仲間の行動と自分の判断とのギャップをいかに糊塗するかと言うあまり成果のあることとは思われないことに腐心した時期であったような気さえする。そのために公衆電話からメンバーの一人と今日も 会い明日も会えるにもかかわらず2時間以上話したりする愚を繰り返していた。 トンキールは全員参加ではなかったが、よく旅行をした。湖を求めて、テントをかついて、寝袋を背負って、費用をケチって、富士五湖とか、尾瀬沼とか、軽井沢とか、北海道とかを旅った。 マージャンもトンキールのおかげで、雀風が確立された。ゲームとしてのマージャンと勝負としてのマージャンのバランスが見事なくらい独特なものを培ったようである。今になって普通のお付き合いのメンバーと卓を囲むと、館長の打ち方は理解できないと貶される。でも負けなきゃ良いんでしょうとゲームを楽しむのが館長の雀風である。 こんなことをくだくだ書いてもトンキールの何たるかの解明にならないのに気がついているのだが、トンキールはそれ以上でもなければ、それ以下でもなく大したものでないのにもかかわらず、館長の人生に確実に影響を与えてきてしまっている。良かったのか悪かったのかは判断しようがないけど、館長はそれなりに評価している。 トンキールの世界に与えた影響について、一言。雑誌をガリ版で出していたころ、トトカルチョを日本へとの決議を行った。それが、今のトトに繋がっている。メンバーの一人が日本サッカー協会の副会長でFIFAの理事であり、それを助けた報知のスタッフがメンバーでもある。ワールドカップを前にこのことは記しておきたい。 |
||||||||
トンキールは永遠に不滅ですか? 2007年2月16日の日本経済新聞の交遊抄に、トンキール同人小倉純二が書いているので、其の記事を此処に紹介する。 因みに、同人3人がこの4日にインドへ来てくれる。ありがたい話である。ベナレスのアキオを尋ねて、館長も同道する予定である。 |
||||||||
価値観は人により違うと言うが、大川の価値観はあまりにも自分と異なり、畏敬を感じていた。 |