ビノードの村へ V

2009/7/10

出発

当日7月2日(木)の朝は、通常通りニームラナへ07:30に出発し、17:00直前にニームラナを出る。リッチモンド・パークの自宅に6時45分に帰りつく。晩飯は、ビノードに冷やしたぬきそばを作ってもらい、腹ごしらえをして出発を20:00と決める。

服装は、カーキ色のTシャツの上にサファリと言う格好に決めた。(半袖サファリはポケットが多くて便利である。)持ってゆくものは。手提げバッグに、着替えと、お土産の日本の甘納豆を含むお菓子、非常食用のビスケット、梅干し飴、地図(前出)、切符の類、パスポート、デジカメ用の予備電池などなどである。

ビノードは、アキオから頼まれた、アキオの荷物と、自分のボストンバッグとデイバッグ。そこには、館長が持たせた実家へのお土産のカジューバルフィ(カシューナッツの粉の入ったバルフィと言う菓子。)0.5キロ入り3箱がはいっている。

22:00にラマの運転するINNOVAで出発。ニューデリー駅には小一時間で到着。ラマに5日の16:00にJET エアーでヴァナラシから帰ってくる旨を再確認して、駅に向かう。駅周辺はごった返すひとひとひとで、活気の坩堝である。先ず、入口の電光掲示板で、乗るべき汽車の確認をする。

電光掲示板で、列車番号、愛称、出発時間、ホーム(プラットホーム)を確認する。9番線と知れる。早速、ビノードが先頭を切って階段を上ろうとするのを押さえ、館長はやおらフランドール(ニトログリセリンの張り薬)を胸に張る。階段を上るのと、人息れで狭心症の発作が起こらないようにとの予防策である。一歩一歩ゆったりト階段を上がり、連絡橋の上に立つ。ホット息を継ぎ、9番線を目指す。

9番線のホームもひとひとで一杯である。それでもビノードが何とか空いている椅子を見つけ、人と人の間の数十センチの間に尻を入れ強引に座り込む形を取ると、親切にも両脇のインド人がどうぞどうぞと隙間を作って歓迎してくれた。インド人はこんなときにとても親切である。

入線は出発30分前であるとの電光掲示があり、ひたすらホームを観察する形となる。

ホームはあいついで出発する8番線の乗客と9番線の乗客で充ち溢れ、そこに物売りが、商売商売と動き回り、水場で水を飲む人が、鎖や鍵を売る人が、食べ物を売るスタンドに群がる人が、見送る人が蠢いている。この喧騒がインドなのだと身震いするほど感動する。それに加えて、文明の利器である電気を使っての構内放送が引っ切り無しにされ、さらに興奮の度を上げる。聞くともなしに聞いていると、出発案内、到着案内をしているようである。出発は定時に行われている印象であったが、問題は到着である。遠くブワネシュワルからの到着は20時間以上遅れているようで、10時間以上遅れも軒並みの感じがした。此処にもインドがと感心する。

6年生の時に親父についてアメ横に仕入れに行ったとき(当時館長の家は阿佐ヶ谷6丁目で菓子屋をやっていた)大きな荷物に頭をごつごつぶつけながら歩いた喧噪、初めて北京のワンフーチンを歩いた時の喧噪、いずれも誰が指揮を取っている訳でもないのに、皆が自然体で活気良く蠢いている喧噪の人間臭さに感動したが、その喧騒にインドの駅のホームの喧騒は似ている。館長はこの種の喧騒にいつも感動する。
 
運転手のラマと留守の引き継ぎするビノード・・
電光掲示板で汽車の発車時間とホームの確認をする。下から3番目のPurushotan Express
で、9番線より22:20発である。
人を興奮させるホームの喧騒である。鎖と小さな南京錠を売る男。荷物をまとめて鎖をかけて鎖は鍵で絞める。1961年のときの旅行では、日本の茣蓙に全ての荷物を包み、神戸で買った鎖で日本製の南京錠で絞め、インド中を移動したことを思い出した。今でもその手を使うインド人がいるようである。駅の写真はご法度であるので数がいかない・・

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