三菱商事
 
カルカッタ駐在員を拝命

会社は約束を守り、5年以内に同期で一番早く海外駐在の栄誉(?)を頂き、1967年の秋勇んでカルカッタに赴任した。何だかんだで7年駐在した。最初の一年はひどいもので、年間成約はたったの数十トンと言うていたらくで、実際の仕事は無いに等しかった。これは、インドが外貨が無く輸入ライセンスが発給されなかったためである。そのとき、日商岩井の久保さんとインドを分析し、話し合い、客回りに徹することにした。飛行機嫌いの自分が良くぞ決心したと思う。将来必ず市場は動くとの信念で、全ての大手の客を回ろうと言うことで、カルカッタをベースに東西南北飛び回った。それが花咲き、一年半後市場が動き出し時には、他社が手を出せない状況になっていた。ブームに乗った形で商売は伸び、毎年数回のミルのミッションを迎え、受けに入った。その後石油ショックがあったが、粘り強い説得により高炉製品は一トンのキャンセルなしで、若干の積み延ばしで全てをインド側に引き取ってもらったのも思い出である。

インド人の友人も数多く出来、又色々な日本人にも出会えた。岡本太郎、長洲一二、堀田善衛、大江健三郎、杉村春子、山内利夫は今でも思い出される人達である。

家族は、長女は5ヶ月で日本からインドへ渡り、次女3女をカルカッタでたまわり、家族全員無事帰国した。女房に感謝、家族に感謝である。このころ持病の胆石が動き回り、1週間に3回ブスコパンのお世話にになったりした。家族を省みず週数回にわたり客を家に迎え仕事とマージャンに明け暮れた時代であった。

ゴルフも得意ではないにせよ、英国以外ではもっとも古いローヤル・カルカッタ・ゴルフ・クラブの永久会員(会員番号:S-869)にもなった。マイダンのフォート・ウイリアムのゴルフ場でYellow Flat Noseと言う名前で出場、優勝した記録が掲額されている。
同じマイダンにシーメンズクラブの山之内さんを中心に若手が動き、インド人の柔道場を畳を日本から入れて、作ったのも、後の三浦守君との縁もあり、思い出である。

山本、岡野、久富三代の支店長に使えて、足掛け7年カルカッタにいた。充実した駐在であった。
 

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