日印親善学生使節団

2006/7/16

 1961年、東京外国語大学のインド・パーキスタン語科の学生三人が日印親善使節団として渡印した。大学と日印文化協会(中村元東京大学教授が会長であった)の後援を得て、日本企業約百五十社からの資金援助の協力を受けた。

寄付集めは、簡単なものではなく、非常に困難であったが、社会の裏側を垣間見る機会もあり面白くもあった。

第一号のご援助を頂いたのは、シチズンの山田社長に、先ず手紙を出し、電話に出ていただき、5万円の寄付の約束を取り付けた。富士銀行に振り込まれた5万円と言う数字を見て、もう後戻りは出来ないと臍を固めた。1960年の暮れの話であった。

橋岡、竹沢と館長の3人は、毎日大丸デパートの地下に集合して足で寄付を稼いだ。大物の銀行協会の攻略時には、銀行協会の前の車寄せで中山素平さんを待ちうけ、銀行協会の建物までの15メートルの間を早足で歩く先輩に、使節団の趣旨を説明して今日の委員会で議題に上るゆえよろしく特配をお願いし、20万円を確保し愁眉を開いた。

総会屋に寄付するよりは、君達に乗るよと寄付をしていただけた総務担当の方もいた。結局は総額約150万円を集た。

当時は、パスポートを取るにも現在と異なり、外貨審議会と言うところで審査を受ける必要があり、文部省、大蔵省、外務省、通産省などのお役所巡りをして、使節団の趣旨を説明して歩いた。万が一の時には、政治家の力も必要かも知れないとのことで、各自一人代議士を捕まえることとし、橋岡は出身地の広島の宮沢喜一を、竹沢は長野の福永一を、館長は名古屋の辻寛一(出身地とは無関係)を捕まえた。金にならない学生をよく面倒見てくれたものである。3人に面会して、それぞれに趣旨の説明をした。無事に外貨枠と旅券を手にすることが出来た。叩けよさらば開かれんであった。

又、インドの情報を求めて、インドへいったことのある方々とも会い、情報を収集した。池田総理のご意見番といわれた橘大亀(僧侶)にも会った。ガンジーがニンニク臭かったとの情報を得たが、それがどうしたとの反発も持った覚えがある。日印産業の高村さんに会ったのも情報収集のためであった。かなり実用的な情報が得られた。その他十数名に会った記憶がある。

POの貨客船サンティアに神戸から乗船し二十一日間かけてカルカッタに上陸した。乗船する前に、デッキパッセンジャーとなる3人は船の現場を見に行ったところ、甲板のしたの壁際に畳一条の鉄板が3段にしつられてあり、それがベッド兼船室であることが分かった。急遽神戸の橋岡の親戚の家の茣蓙をはがし、夏掛け布団を3枚買い、直系2センチくらいの鎖で縛り船に持ち込むことにした。これが、大いに役に立ち、インド上陸後も、当時のインド人が旅のときに常用していた一切合財を丸め込んだホールドールの代わりを務めてくれた。鎖を縛る代わりに小型の南京錠を使ったが、譲ってくれとリクエストがでるほどインド人に評判よかった。

21日間の船旅は、香港、シンガポール、ペナン、バンコク、ラングーンと寄港したが、香港までは、われわれと東京のインド大使館の私的使用人(下男)であったインド人であった。香港からは、中国人が大挙乗り込み、デッキは一杯となった。館長は99ドル(当時の為替は1ドル360円)のデッキで頑張ったが、橋岡と竹沢の二人は住環境と食事とに耐えられず2等の船客に納まりなおした。デッキの食事は中華食でバケツでひしゃくでアルミのさらに入れられる。まずかったし、時にはござった魚の旨煮が出たりしたが、文句は言わずに食べたものである。

シンガポールからは、首にパスポートをお守りみたいにぶら下げた、インド人が大挙乗り込んできた。食事はインド食に変わった。このほうが中華食より口に合ったが旨いと言う感じではなかった。

この船のデッキに乗る船客は、中国人もインド人も家財道具や、鶏やヤギまで積み込み、自分で調理していた。そのカレーや中華をおすそ分けに預かると天にも登る美味しさで涙が伝ばかりであった。

カルカッタ(現在のコルコタ)に上陸するときは、船員のカメラなどを通関してやる代わりに2等先客並みの扱いで上陸させる約束を取り付けた。さもないと、デッキパッセンジャーはフーグリ河に免疫検査のため48時間待機させられるとのことで、それを避けたわけである。

上陸して、三井物産の大庭支店長の大邸宅に1週間ほど世話になり(そのときのベアラーのヒララと後でカルカッタ駐在の際に再会することになる)、インド一周が始まった。一人99ルピーのインド国鉄学生周遊券を購入して、約三ヶ月にわたりインド各地を訪問して二十校以上の学校と、三十社以上の会社を歴訪して親善を深めた。

カルカッタではYKKが技術提携していたキャンガンと言う名のファスナー工場を見学した。女工さんがサリーで働く姿に感動した。その後、このプロジェクトは失敗となり幕をと閉じた。ベンガルポッタリーと言う会社を訪問した。この会社は今でも健在である。花瓶などを作っている。

タタ製鉄所を訪問してその規模の大きさに感動した。初めての製鉄所である。若いときになるたけ日本の工場などの見学をするべきだと思った。

インド旭硝子のブルクンダ工場での1週間のバイトをした。現地人と同じ飯を食い同じ仕事をやってみた。インド人の忍耐強さに感心した。

バンガロールで建設開始前のHMT(Hindustan Machine Tool 社)の精密部門すなわちシチズンの工場敷地を日本人の方に案内してもらった。

ケララでは興国鋼線索の提携先のALIND(Alminium Industries of India社)を訪問した。日本人が3人技術指導に来ていた。キャンティーンのクックのカーストについて悩んでおられた。

ボンベイでは今は亡き田中良平さんにお世話になった。外語のインド語の先輩である。

エローラ・アジャンタにも行くことが出来た。

デリーでは日立のポールさんに案内してもらいアグラホテルに滞在した。ポールさんとはその後長い付き合いとなった。大使館の鈴木さんのアレンジで国会見学をした。

アラハバード大学では、中国人の先生と会い、その学生と友好を深めたが、中に今考えると、生まれ変わりを信じている学生に絡まれ対応に苦慮した記憶がある。

ベナーレスで、熱射病でダウンした。

思い出すままに、書いたが、毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかった。宿屋は一日50パイサから1ルピーが普通で、ボンベイのミラベルホテルの42ルピーは例外であった。(当時1ルピーは75円であった。)

インドは魅力に満ちた、私のあくなき好奇心を満足させてくれる国で、短期間の旅行では理解できないと感じた。

インドを一周して出発点のカルカッタに帰り着いたとき、この国は二十年住んでみないと理解できないのではないかと結論した。そしてそれをやってみようと密かに決心した。爾来館長の人生はそのための軌跡であった。

六年掛けて外語を卒業することになり、五年以内にインドに出してくれる企業を探し、1964年に三菱商事に就職した。四年目に同期で一番早く海外駐在員の命を受ける栄誉(?)に浴し、最初の任地のカルカッタに向かった。同地には足掛け7年駐在し、その後二回ニューデリー駐在員を拝命した。1991年に帰任し、もっといろいろなことでインドと日本のためになることを考え会社を退職して、日印調査委員会の事務局長を引き受けた。その後、1999年からJICAの専門家としてニューデリーに三年駐在した。その結果、十九年の駐在を果たすこととなった。

現在は、インド・アジア開発有限会社の一員として、日本企業のインド進出を中心に、小生のインドに関する不完全な知識と経験を生かすことに腐心している。出来ればもう一年インド滞在の記録を伸ばし、念願の二十年滞在を達成したい。そうすればもう少しインドのこと見えてくるのではないかと、その機会を作るべく努力をしているのが今の私である。

インドにかけた私の人生は大成功であったと思っている。もう一度生まれ変わってもインドを見つめて生きたいと考えている。

そんなときに、三井金属さんから、インドでの話があり、2年の契約でインドに駐在することになり、ようやく念願の20年を達成できることとなった。現在デリーの南30キロのグルガオン市に居住したインドを満喫している。これに勝る幸せは無いと感じて天命に感謝している。

後一年インドにいられる幸せを感謝しつつ・・

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