さくら会

2006/6/22

「さくら会」とは又何と平凡なネーミングであろうか。一体誰がつけたのか知らない。しかし、かなりユニークな会となった。

当時の一クラスは60名を超えて、教室の中一杯であった。南先生は腺病質の感じの先生で、関東バスの車庫の裏のほうに住んでいた。先生が学校に来ないときなどは、その理由を疑うことも知らない6年4組の数人が、先生の下宿を襲い、無理やり学校へと引っ張り出すような幕もあったように記憶している。

当時としては、斬新なアブストラクトの絵の時間があったりして、石川君の描くおもちゃの交響曲の発想に啓発され、いたく感動した記憶がある。

又、地図に滅法強い奥君がいて、記憶することを苦手とする館長を痛く感動させてくれた。彼とは、フランクフルトの飛行場で、その特徴のある声を遠くに聞き、走り寄るとやはり彼で、何十年ぶりの再会を果たした。同じ飛行機での帰国であったので、事情をパーサーに話し隣の席にしてもらい(彼はヨーロッパ旅行の添乗員で、エコノミーであったのをグレードアップしてもらった)日本まで思い出話に花を咲かせたこともあった。その後彼は脳梗塞で信濃町の慶応病院に入院したので、葡萄を持っての見舞いの席で、ご令室とも会うことが出来た。

一年浪人して、外語に入ったときに、驚いた。何と6年4組から、館長以外に2人、絵の上手い石川君(彼の描く手塚治虫の漫画が忘れられない。)と経堂の志水君の名前が見つかったことであった。普通の小学校の同じ組から3人が東京外国語学校に入る確率のすごさに感動した。石川君はスペイン語、志水君は中国語であった。

その後、志水君とは、新日鉄の仕事つながりでの縁もあったり、又インドで再会したりもあり、奇しき因縁を経験した。

さくら会の名簿に不明者2人と言うのは、今は亡き久世君の家族を省みないほどの努力があったと聞いている。久世君亡き後は、遅れてきた船長さんこと横山君が会の幹事を率先してやってくれたことを感謝している。それを協力する女性部隊が又すごい。

さくら会の女性は強かった。反省会で、「清君がパンツ一つで遊んでいるのは、いけないと思います。」を指摘され、顔を赤くしてグーの音も出なかった自分を今でも館長は覚えている。館長にとっては、女性達が当時はとても大きく見えた。今でも会うと大きいなーと感動する。でも皆良い人でみんな好きだった。大学時代に、バスの中でばったり勝屋さんに会ったときに、女性の変化のすごさにも感動した。まぶしいくらいに美しかった。

まだまだ思い出は尽きないが、最後に淀橋浄水場の坂の途中に住んでいた、大野君がいまやコクドの社長を経てプリンスホテルの社長であることを書いて筆をおく。(?pcの場合は使えない言い回しか)続を書く可能性も残しておこう。

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