小学校の記憶

2006/7/14

毎日楽しく学校へ行っていたと思う。幸町の子供達と一緒に登校していた。向かいの洋食屋の斉藤太一君、後ろの佐野君、それに双子の女の子などがいた。

洋食屋と書いたが、一銭洋食のことである。70センチ四方の鉄板の上に、お好み焼きの要領で溶いた小麦粉を直径20〜25センチくらいに丸く延ばす。その上に、キャベツを刻んだのとねぎの刻んだのを載せ、さらに削り節をのせ、ベースに使った小麦粉の溶いたものをその上にたらたらとかけて、金のヘラで火が通ったらひっくり返す。それにソースを塗って出来上がりである。斉藤のおばちゃんがやってくれる。周りに餓鬼がぐるっと固唾を呑んで待っている。それをふうふう言いながら金の小さなへらで食べるのが一人前みたいで、大人ぶったりした。これを洋食といっていた。

富士宮名物の焼きそばのオリジンである。

学校で俳句を作りそれが何か大きな雑誌にか校内誌に乗った記憶がある。「春の日や かすみの奥に 富士の山」と言う作品でなぜか今でも覚えている。

学校の文房具の売店で、テープの長さを当てる懸賞があった。今で言うクイズの走りであろうか。見事125センチとずばり当てて、全校で2人朝礼で表彰され、褒美の文房具を頂いた記憶がある。

水の綺麗な富士宮の浅間神社の湧く玉池の水は泳ぐには冷たく、飲んで甘露であった。その浅間神社とその裏の森が遊び場であった。

たまには上の万野まで足を伸ばし、はと麦の実を取りそれでお手玉を作った記憶もある。それを西田京子に上げた記憶がある。

手塚治虫を知ったのもその頃であろうか。いとこの家の本棚から借りて、ルルの話や、漫画大学、有尾人、ロストワールド、神宝島を夢中で読んだ記憶がある。その世界にのめり込んだ時期もある。未だに、SFを好んで読むのもこのときの影響であろうか。

西町の寿町に住む母方の祖母きんは日蓮宗の信者で、祖母について寒行に団扇太鼓を叩いて回った記憶もある。大宮と西町を交互に20日間、アンモ山の先達さんについての業であったようの気がする。それが、仏教への興味、インドへの興味に繋がったのかもしれない。

父方の祖父は丑松、祖母はなかといい、母方は嘉一郎といった。昔の人の名前は趣があったような気がする。

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