「インド天国」論者の出現

2005/10/10

 今日、10月10日、インドの秋を象徴するような快適な天気です。これが来年の春の彼岸まで続く。彼岸から彼岸までがよい季節で、又悪い季節でもある。

アサヒインドガラスの小島さんを、ニューデリーの約30キロ南のグルガオンの近代的なガラスで覆われたデトロイトを思わす高層ビルの5階にある事務所に訪ねた。隣組に13日の地鎮祭のご案内に行ったわけである。

アサヒインドガラスは、インドと日本の合弁の会社で、1950年代の後半から3回名前を変えながら、今の栄華を謳歌する会社になっている。
インドアサヒガラス社は1950年代の後半に、ベンガル湾に臨むコルコタを首都とするウエストベンガル州の、西隣のビハール州のブルクンダというところにあったインドの古い工場を、日本の旭硝子が買い取り操業を始めたのを嚆矢とする。

かの有名なスズキとの合弁のマルチ社からの要望もあって、アサヒガラスはカシーミール出身のラブルー一族とマルチ社との合弁で、グルガオンの南60キロのダルヘラというところで、自動車用の安全ガラスの製造に踏み切りました。これが、アサヒインドセーフティガラスである。さらに、インド最大の工業資本の勇のタタグループとフロートガラスの合弁をボンベイでやりました。フロートガラスインディアである。その後、タタとのフローとガラスがあまりうまく行かないとのことで、この安全ガラスの会社が、軒先を借りた店子が母屋を買い取るかのように、フロートガラスという一大装置産業を買い取り現在の名前になっている。

インドに進出している日本企業の成功例の一つである。旭硝子がインドで成功した鍵はどこにあるのだろうか。

先ず指摘できるのは、1950年代に当時では未知なる国のインドに進出する決断をしたマネイジメントでしょう。定期的に大飢饉に襲われ十万、百万単位で飢餓街道に死体がマグロなす国の将来を見越して投資に踏み切ったトップの先見性に敬意を表します。企業成功の秘訣は先見性あることは論を待たないが、いざ実行できるマネイジメントは稀有である。

これが旭硝子の海外第一号のプロジェクトであったという。ここに派遣される人材は日本で一番優秀な人たちで、後に会社を支える中核となっていった。優秀な人材を派遣して、本社が本気になってバックアップしたということも指摘したい。本社が真剣になっていた証拠にインド要員に対する処遇があります。かなり厚く遇していた歴史があるようです。

最終的なパートナーになったラブルー一族という非常にすばらしい人たちを見つけたことも看過できない。ラブルー会長は常に会社と旭硝子のことを念頭において考え行動しています。マルチ社のバルカバ社長が、ラブルーをパートナーに選んだ旭硝子をべた褒めしている。

ダルヘラという当時は何もないデリーから100キロ南に離れた場所に、1980年代の後半に工場を建設したのも今では英断としか評価できません。道路事情も悪く、悪路をバスを仕立ててデリー市内から二時間以上かけて通っていたものです。今、道路を隔てた反対側が、バワルという工業団地としてHSIDC(ハルヤナ州産業開発公団)により開発されて、わが三井金属を始めとする、日本企業約7社が進出していいます。もう空き地がないほど盛況です。

現地人の定着率が抜群です。人心掌握ができる日本人が派遣されている。人間的にインド人から尊敬される人が派遣されていることでもありましょう。

インド側あるいはインド人労働者から提案されることについて真剣に検討して、実現可能なものはそれを採用している。合わせガラス工場建設に関してはインド側のイデアに任せた部分も多々有ると聞いています。基本姿勢として日本の良いところとインドの良いところを採用しようという点が際立っています。
小島さんはかなりゆとりのある話し方で、乗用車では90%以上のシェアを占める自信を感じさせていました。

その小島さんが「インドは天国ですよ。」とのたまわった。わが上司の中川さんについでの二人目の天国論者の出現です。心強く感じた次第です。
 

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