信教の自由

2008/7/31

インドを一言で表現するならば、館長は「多様性」という言葉を選ぶ。

その多様性は、民族、文化、宗教、言語、食べ物、哲学、意見、神々、商売、森羅万象全てに通用する。

白黒黄色とその中間すべての肌の色が共存する世界に、3万種を超える言語が存在するという。

5000年以上にわたって培われた文化が、今日本の約10倍の土地に、11億以上の広がりを見せて人間が共存するこの多様性は、地球線宇宙号の中で瞠目すべき現象である。
そのインド世界を統括するインド政府は、根本に多様性を容認する政策をとっている様に見える。一時は社会主義的という観点を重視したようであるが、その時期でさえ、モノの考え方に傾斜することはなく、考え方や哲学が異なる人の間でユニティーを説くのが精一杯であった。コングレスのスローガンの一つは結党以来ユニティーであったことがその例証であろう。

しかも民主主義というシステムを通して・・

この二つのことがよく中国と対比される。音は異なるけど書けば同じという中国語議論、選挙はあるが民主的とは言えない選良を選ぶシステム・・

インドの憲法によれば、インドには国教はない。パキスタンの回教、タイの仏教というような国教はない。いわゆる日本と同じ宗教的にはセキュラリズムの国家である。

インドの憲法を読む時には細心の注意が必要で、一見矛盾するような表現がちりばめられえている。平等と弱者に対する配慮などがその例にあげられる。

圧倒的に数の多いヒンドゥー教徒とマイノリティーとのバランスをどう取るかとの課題は、民主主義をシステムとして使う上での永遠の課題となる。

科学的な真実は民主主義のシステムには馴染まないと同じように、個人の宗教的な信教の自由は民主主義のシステムには馴染まない。

大きな国体を維持するための民主主義というシステムを支える個人の目からインドを見上げると、そこに見え隠れするのがオウンリスクというシステムである。

この混乱する交通事情の中ででの接触事故の処理が、自分の保険で直すという原則、これがまさにオウンリスクの考え方に基づくシステムであろう。悪いほうが保険をカバーするシステムでは、事故は防げない。理屈をつけて議論を論理を組み立てるこの国の文化には馴染まない。

この世で起こることがすべてオウンリスクの考えにより運用されているようである。

信じる神もオウンリスクで、ガネーシュを信じようが、鰯の頭を信じようが個人の自由なのである。素裸のジャインの坊主に従う主婦もいれば、飛行場でグルジーの足に額を付けて祭りあがる老婦人もいる。夫婦でキリスト教会に、毎日曜日に礼拝に行く使用人たちもいる。その子供たちが同じ師や神に額づくとは限らない世界でもある。

インドでは、いかなる宗教に対しても信教の自由は認められていて、布教活動も認められている。ただし、その前提として、多様性に対する侵害は認められないことになったいる。自分の自由はあくまで他人の自由の侵害がないのが前提となるわけである。

ということで、現在のインドの切り口には、宗教のあらゆる形がその断面をのぞかせている。

インド政府は、トラディショナルな宗教も、新興宗教も差別しない。外国が持ち込む宗教に対しても同様に差別しない。カワルワラがガンガの水を運び、クリスマスパーティーを開いても、うちわ太鼓を叩いても誰も異を唱えない。

ロタステンプルという愛称で呼ばれるバハイの瞑想場もできれば、日本山妙法寺のお寺も建築許可が出る。サイババ信仰は熱狂的に続いているし、OSHOを信仰する人たちは彼の死後もプネ詣でを絶やしていない。インド人の考え方によれば、すべての伝統的な宗教も発生のときには新興宗教であったことを喝破している。

ダラムサラにダライラマが鎮座するのもそういう問題の一つでしかないのかもしれない。
一方、日本人が無宗教と答えるとインド人はびっくりして「HOW!?」と聞き返す。宗教なしでどうやって毎日を生きてゆくのかと吃驚するのである。朝起きて寝るまで、生まれて死ぬまで、宗教の規範がなくてどう生きてゆくのかと驚愕するのである。

最近日本で起きている、尊属殺人や、無差別殺人の背景は、無教育、無宗教、無哲学であるのではないかと館長は喝破するのだが、いかがか。

最近インドの街角で瞑想を呼びかける看板を見るたびに、館長は、自省を含む瞑想から、無を観想しようとする瞑想まで思いを馳せ、宇宙船地球号で共生するためのシステムについて思いを馳せるのである。
 
街で見かける瞑想を誘う看板・・

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