インド経済発展の背景

2005/1

80年台の世界の3大社会主義国
1980年代の世界を思い起こすと、現在とはずいぶん違ったものが存在していた。
ソ連、中国、インドの三大社会主義国がそれであり、世界の人口の過半数を占めていた。それぞれの国には図抜けた頭脳の指導者たちが君臨していた。ゴルバチョフ、ケ小平、インディラ・ガンディである。それらの偉大なる指導者が、他国の首脳に招かれた際に、その対象国を観察して、自国の事情と比較をしたに違いない。

偉大なる指導者たちの洞察力
例えば、外国を訪問した際の自分の日程は、本国での自分の日程と同様に分刻みで構成されて狂いが無い。しかし外国の多くの国では一般市民の日程も、自分が訪問している間でも、狂いなく行われることに気がついた。振り返って自分の国を見てみると、「一将なって万骨かる。」状況で、一人の大名が快適に過ごすノウハウはあっても万人が幸せに生活するシステムが確立されていないことに気がついた筈である。それを感じて、自国をどうにかしないと世界に伍して行けないと分析したに違いない。そこで三人の英傑は、それを解決する策を考えた。それが、ゴルバチョフの「ペレストロイカ」であり、ケ小平の「外国文化の学習で」あり、又、インディラ・ガンディーの「最新技術の導入」であった。と筆者は世界史を振り返る。


ソ連、中国が選んだ道
ソ連はペレストロイカ(これは建て直しと約されている)の顛末は、ご存知の通りソ連の崩壊・消滅の道をたどらざるを得ない結果となり、ロシヤへの再生への道であった。
ケ小平の「外国文化の学習」というスローガンは年寄りの文献派や、学者の研究家を超えて、外国を意識し、期待する若者たちを天安門に駆り立てる結果となった。外国文化の学習は、若者たちにとっては、本を読んだり、映像を見たりでなく、ディスコで躍り、民主主義を実践することではないかとなったわけである。ケ小平の意図したことは、背景にある外国文化を理解しないと、中国で生産する製品が世界で通用する品質になりえないとの文脈であったのが、外国文化を自国の中で実現、実験しようという若者のエネルギーに火をつける結果となった。この辺の問題の回答はいまだ中国では結論は出さずに先送りをしているように思えるが如何であろう。

インドが選んだ道
インディラ・ガンディーの提唱した「最新技術の導入」は一部を除いて彼女の生前中には実現しなかった。その一部の栄光は日本にあった。「最新技術の導入」の掛け声の後ろ盾もあり、息子のラジブ・ガンディが創立したマルチウドヨーグという会社が日本のスズキと組んで800ccの国民車を作り、その第一台目がインディラ・ガンディー首相に贈呈された。それはまさに最新技術の導入の緒になるはずであった、それに続くものが出てこなかった。首相の意を受けた官僚たちは、彼女の暗殺後7年かけて、「最新技術導入」の方法を模索した。その意思は彼女の死後も継承され、1991年の経済開放・外資歓迎政策となった。既存のシステムの中での「最新技術の導入」であるスズキのインド進出は特例的なもので一般化されることは無く、むしろ古いライセンスシステムを支える側面を持つもので進歩的なものではなかった。

マハトマ・ガンディの哲学
マハトマ・ガンディはインド独立運動の中で、貧しさからの脱却を考え、原始共産主義的な村落共同体を夢に描いたりしたが、ネルーと妥協し、社会主義的国家という妥協点に達した。それでインドの産業政策は、マハトマ・ガンディが唱えたセルフリライアンス(独立独行)という自給自足的な哲学的とも言える面も有する経済政策であったわけである。重用基幹産業を国営とし、5カ年計画により計画生産を行い、輸出入も国が規制するというまさに社会主義型の経済であった。しかし民主主義を標榜するインドは、一部の民間にも企業権を付与し、その多くは力のある財閥系が享受する結果となっていた。これを混合経済と学者は名ずけた。

ライセンス・ラジの時代
それを実践するために、全ての工業はライセンスを取得することが義務付けられて、いわゆるライセンスさえ取れば必ず儲かるという「ライセンス・ラジ(インド語で統治・政治を意味する)」という時代を作ってしまった。官僚は重用基幹産業が作り出す製品を儲けながら売るために、需要の75%までの工業許可をしか発給しない方針を採ったようで、作ればその品質いかんにかかわらず必ず売れる環境を作り上げる結果となった。
この時代には、いかにして良い製品を作る工場を作るかよりも、いかにして工業ライセンスを取るかが企業競争に勝つ秘訣となった。それが、多くの民間企業が、技術革新を促すことを放棄しライセンス取得競争に企業が専念する結果となった。ひとつ象徴的な例を挙げよう。1960年台にトヨタはカルカッタ(現在のコルコタ)にあるヒンダスタン・モーター社を見学している。当時のヒンダスタン・モーター社は現在も生産し続けているアンバサダーという車を生産していて、国産化率95%を超えていることを誇りとしていた。それが今どうなっているかはご想像の通りある。

木に竹を接ぐ作業
1991年の5月に発表された新経済政策は、それまでのインドを知るものにとっては驚天動地のものであった。産業政策の自由化が打ち出されると同時に、外貨歓迎政策も発表された。セルフリライアンス(独立独行)からインターディペンデンス(国際相互依存)へのガンディー哲学を否定しての180度の政策転換であった。
統制経済から自由解放経済への転換であった。産業政策は、各産業別に許認可を与える条件を詳細に記した膨大な頁のポジティブ・リストから、数少ない国防、原子力等の特定国益産業を除きライセンスを不要とするネガティブ・リストに移行した。革命的な変貌である。
インドは歴史から多くを学び、特に英国の搾取の経験から極度の外資警戒感を持ち、非常
厳しい外貨規制が行われていた。それをかなぐり捨てて一気に外貨歓迎に踏み切った。と同時に、外貨規制を自由化の方向へ舵を取った。
昨日までの社会主義的経済から、自由主義的経済へ、閉鎖から開放への変身を国内外に宣言した。
まさに木に竹を接ぐ作業を開始したことになる。
日本とインドは多くの点で決定的な相違点があるが、それを超えての共通点がある指摘したい。それは、180度の政策転換がおこなれ木に竹を接ぐようなことが起こっても市民生活は一日たりとも混乱が起こらなかったということである。

過度の自由にびっくりしたインド人
1991年の産業政策の自由化、外資歓迎経済への180度の政策変更は、革命的なものであり、体制変更を呼び込むことさえありうる激震であったにもかかわらず、一般市民の生活は一日たりとも混乱を来たすことはなかった。しかし多くの企業家にとっては大変なことで、かねがね自由化を求めていた一部の企業家にとっても対応におたおたしたところが見受けられた。小遣い月1000円の中学生が増額要求を親に嘆願していたところ、突然月千万円の小遣いを与えられた情況に似ている。あまりの大幅な自由化に対応できず、しばらくは宙を歩くような対応をしていた。ライセンス制度で過保護の状況で、先駆者利益で会社を経営していた企業家達は、同じ発想で、いかに早く外国企業と組むかが成功の鍵とばかり、日本商社にラッシュして、「金は有る。何でも良いから一緒にやろう。」と言い張った。日本側はそんな話に乗れるはずはなくそのような動きは約半年で消えていった。1991年の暮れあたりになって、ようやく自分の専門分野での合弁を考えるように変化してきた。
インドの政策変化に対して日本を始めとする諸外国の反応は、本当にインドは自由化をしたのかという確認作業が先にたった。日本の場合21か条にわたる質問・改善要求をインド側に提出し、様子を見ることとなった。
10年後になって漸く自由化の本当の意味が染み渡り、今では順調に最新技術の導入が外資ともども行われるようになってきている。

アメリカに留学したインド人達
1947年に独立した当時のインドでは、高級官僚や金持ちたちは、自分の息子たちを、元の宗主国である英国に留学させるか、新興アメリカに留学させるかで議論は分かれていたように見える。後で振り返ってみると、圧倒的にアメリカ派が多かったことがわかる。
アメリカに留学したインド人たちは、とにかく勉強した。外貨制限の厳しい中、親の血と汗でためた金を使っての留学である、ある意味では一族郎党の代表的な要素まで持っての留学である。インド人の学問に対する純粋な向学心とこれらの要素があいまって、インド人留学生は他国からの留学生と比較して考えられないような優秀な成績をあげた。

優秀な卒業生の働き口としてのIT産業
このような優秀なインド人でも、人種差別的な考え方も有った当時のアメリカでは、伝統的一流企業への就職の道は狭かった。そこで彼等卒業生がラッシュしたのが当時の新興産業であったシリコンバレーであった。ここでインド人は水を得た魚のように、活躍して、現在のアメリカIT産業の基礎造りに貢献した。NASA、IBM,マイクロソフト等ではインド人の数は20〜30%を超えるといわれている。丁度アメリカの金融界がユダヤ人なしで動かないのと同様にアメリカのIT産業はインド人無しで動かなくなっている。
アメリカの国防省は、カーネギーメロン大学に金を出し、同大学の中にSEIという組織をつくり、ソフトウエア開発会社の格付けを依頼している。その格付けは下からレベル1から5までとなっている。その最高位のレベル5に位置するインド企業の数は、アメリカをはるかしのいで70%近くを占めている。(日本の大手IT関連企業はようやくレベル3程度。)

インドの核実験とアメリカ大統領の訪印
1998年のインドの核実験後、1998年6月から1999年2月までの間に米印両国は8回にわたる協議を行った。その議題は、世界の平和、核拡散と核政策から、国際システムの形態、テロ問題、二国間の戦略的な協力にまで拡大された。アメリカの世界戦略はインドを考慮に入れて考えざるを得ないというところまでインドがアメリカに対して影響力を持ってしまったということであろう。
この辺の事情の締めくくりとして、現職大統領クリントンのインド訪問がる。2000年3月19日のアメリカ出発から、ニューデリー入り、25日のボンベイ(現在のムンバイ)出発まで足掛け7日間要し、アメリカ大統領は5日間インドにいた。現在の世界ではアメリカと対等にやっていける国ということは、その国の経済を語る際にもっとも重要な格付けであろう。

インドは親日国
日本に留学した中国を含む東南アジアの留学生たちのうちかなりが日本嫌いになるという。インドから日本に留学するインド人は少ないが、日本嫌いになったインド人に有ったことがない。日本に住み、あるいは日本と商売のために来日したインド人、研修に来たインド人等全てが、本国に帰ると会う人に熱く日本のことを語ってる例をたくさん聞く。20年近くインドに住んで、日本、日本人のことを悪く言うインド人に会ったことがない。親日国である

農業依存を抜け出していないインドの力
数年前の東南アジアの通貨危機の際、インドは揺るぎもしなかった。インド政府、官僚のそれなりの対応もあったろうが、一番寄与した要素は、インドは今のところ農業依存度が高いということであろう。インドの人口11億の80%が農業またはそれにに関連した産業に従事している。従い外国で起こるし大波小波の影響を受けることが極めて少ないといえる。しかもその農業が1991年の開放経済宣から今日まで、不作の年が殆ど無く、農民が現金を持つようになってきている。これがインド経済の購買力の基盤となって、成長が行われている。非常に健全な姿である。穀物ベースで現在数千万トンの備蓄があるという。英国統治時代に数年おきに起きていた大飢饉はもう起こりえない。


人口・資源大国
インドの人口は11億になんなんとしている。2030年から2050年の間に中国を追い越して、世界大地の大人口国になる。これらの人口は、労働力の供給源であり又購買力を持つ市場になりうるものである。しかも、農業のみならず工業生産力も着実に増え、加えて地下資源が非常に豊かな国である。ひし形の2辺の海外線は海洋開発も望める。インドは資源大国でもある。

成長するしかない道のないインドの将来への投資
このように見てくると21世紀のインドは成長するしか選択肢が無い国である。そのような国に国を挙げて進出をしているのが韓国である。日本の企業はメリットベースで進出を考えているようであり、環境の異なるインドは進出するに決して容易なことではないが、今まで進出した日本企業はおおよそが黒字経営をしていると言う調査も有る。今インドに進出を検討しない企業は将来不作為の罪を問われるのではないかと筆者は思う。

 

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